ONE WEEK TO GO

2005年8月29日 Working for...
あと一週間
まだまだ細かい決め事が残っている
手配すべきものもまだ残っているし
話し合いもまだたくさんしなくちゃ

あと一週間
お願いしなければならない事項も
このイベントに関係ない他の仕事も
まだまだ過大は山積しているのに
もう時間はわずかしか残っていない

君は今日どこにいた?
僕は少し寝込んでいた
だからって僕が君に
うらみつらみ言うことはない
だけど少しでも君が
僕のそばにいてくれたら
こんなに焦った気持ちを
癒してくれたかもしれない
何かしなくちゃと思っても
何も出来ない日だってある
そんなときこそ気持ちが塞ぐ
だから君にここにいてほしい

あと一週間
集めるのはたかだか200人の
予約を取ったお客さんたちと
50名程度の演出をお願いする
関係者の皆さんだけなんだ

あと一週間
分かってはいるけれども
僕は明日が来るのが怖い
分かってはいるけれども
僕は毎日が来るのが怖い
分かってはいるけれども
君がここにいてほしいだけ
分かってはいるけれども
ほんのちょっと笑顔を見せて
颯爽とした目覚め
朝一番の採血
規則正しい食事に
規則正しい睡眠
とても安楽で
とても退屈な毎日

ただ
皆が病魔を抱えている

時として検査の
結果に喜んでみる
そしてその隣で
得体の知れない症状に
悩まされ始めるものもいる
それでも退屈な毎日

そう
皆が病魔を抱えている

ここは特定機能病院
高度先進医療承認を受けた
もっとも贅沢な
天国に一番近い場所

たくさんの絶望に会いながら
最後の希望を託して訪れる
この国で一番静かな戦場
今日も誰かの背後に
死の足音が忍び寄っている

繰り返される医師の言葉
なんと言うこともない
看護師たちとのやりとりの毎日
何もしなくても疲れ果てて
ぐっすりと眠ることもあるが
恐れが眠りを浅くしている

ここでは
皆が病魔を抱えている

風邪と同じように治る
そんなわけではないと
分かっているのに
病院は治るところなのだと
信じて彼らに従っている
自分の体の言葉に目を背け

毎日
皆が病魔と戦っている

同じ人間という種でも
骨髄が
異なるシステムを持つように(※)
この病気は同じ場所にできても
細胞レベルで見ていくと
誰も彼もが違った病理を抱えている

それなのに
同じ臓器にある悪いものが
他の人に効いた例があったからと
絶対に直るわけではないのに
その治療を選んでいけば
おのずから限界は見えてくるだろう

ここは特定機能病院
高度先進医療承認を受けた
もっとも贅沢な
天国に一番近い場所

たくさんの絶望に会いながら
最後の希望を託して訪れる
この国で一番静かな戦場
今日も誰かの背後に
死の足音が忍び寄っている

ここは特定機能病院
高度先進医療承認を受けた
もっとも贅沢な
天国に一番近い場所

ひとは何も知らないままに
最後に希望に会えたと訪れて
この国で一番穏やかな戦場
今日も誰かは自分の死期を
悟りながら笑っている

ひとは何も知らないままに
最後の最後に希望を捨てて
そのひとが持つ裸の心の
最後の力を振り絞り
明日という宿命に歩き出していく

幸せも
不幸せもなくなる
最後の瞬間を
ここはどんな場所よりも
多く迎える場所でしかない

(※・・・骨髄そのものが持つ機能やその機能発現のシステムは
    同じものであるが、異なる生体間で骨髄を移植する
    ことが困難であるように、様々な抗体などの組成などが
    生体間で異なるという意味で”システムが異なる”。)

ことば。

2005年6月26日 Working for...
仕事(臨床の方)で英語を使った
世間話を久々に英語で、した

相手は日本語ができるということで
私の勤める病院に入院されていた
担当したのでちょっと聞いてみた
「英語はどうですか」
まずまずの日本語で、英語のほうができると
返答された

そして
たくさんしゃべった
ファミリーのこと
文化のこと
信じているもののこと
日常の厳しい仕事と勤務時間
長いバケーション

今回の病気のこと

久々に
気持ちのこもった
「サンキュー」を聞いた
Not at all とカッコつけて返してみたが
幾度となく繰り返されるThank youに
自然に
You’re welcomと返してしまった

私の中では
Not at all 「いえいえ・・・」
You’re welcom 「どういたしまして」
というニュアンスで
Not at allで、そそくさと背を向ける気持ちが
いつしか
You’re welcomと、その方の気持ちに応えて返してしまった
ような気がする

やはり
言葉が通じることは気が楽だ
言葉が通じると
気持ちが通じるような気がする

さて
実は
私は同じ日本人同士でありながら
ほとんどコミュニケーションが取れなくて
悔しいと感じながらも
何か教訓を得たと思った経験をしたことがある

同じ日本人同士でも言葉が通じないということは
100年前
方言が違うことで言葉が通じなかったというような
例も挙げられるが
それと似たようなことだ

実習で
とあるご老人が集う施設での
活動に参加したことがある

今で言う認知症をお持ちの方々も多くみえていた

学生であるために(二十代後半ではあったが)
恐る恐るコミュニケーションを試みた
しかし
挨拶や
天気がどうであるという話題は少し通じるが
話題を膨らませようとすると
まったく話がかみ合わない
相手が言っていることが分からない
しかし
私が言っていることは特段難しいことではなくて
年齢を聞いて
その時代に何があったかを次に聞こうとして
そこで話が止まってしまう
話題が相手の興味をそそらないのかも知れないが
反応がなかったり
見当違いの回答があり
話が続かないのだ
お互いに
ゆっくりと話をしているのに

そして
あきらめて
「ごゆっくり」とその場を離れる
相手の方は
すこしぼんやりとしておられた

しばらくして
隣に座っていた
認知症があり
すこしぼんやりとされている方なのだが
その方と話が始まった

私は驚いた
それまで
脱力していた表情と
うつろな眼差しをしていた二人が
私が聞いたことのない日本語を
流暢にお互い話し始めて
表情豊かに
会話をポンポンと進めていった
どうも
同郷の知人に関する話題のようなのだが
方言が強くて
私にはまったく理解することが出来なかった
何が名詞で
何が動詞で
どこが文節になるのか
それさえも分からなかった

眼差しには光が戻っており
どうも
真剣に議論をしているようで
会話の途中でしきりに頷いたり
言葉の途中で補足を差し挟んだりしている

よっぽど自分自身の方が話し下手だと思った
二人は90歳を越えようかとしている方々だった

私は理解した
このような方々と活き活きと付き合うためには
生まれ育った環境で習得した言葉を身につけるのが
最も効果的な手段だと・・・

日本社会において「人」の流動性が増大したのは
たかだかここ50年ぐらいのことではないだろうか
それまでは
多くの「首都圏」と呼ばれる地域以外の地域で
標準語という教科書で教わるアナウンサーたちがしゃべる言葉と
自分たちの地域に根ざしてお互いに使ってきた「方言」があり
生活で使う言葉の多くは「方言」であった

人の流動性が高まるにつれ
どこに行ってもお互いの意思疎通を図る必要が生まれ
徐々に
「標準語」が使われ始め
教育上も「標準語」が推奨されてきたため
特に子供の時代に学校で多くの「標準語」に触れたために
「方言」と「標準語」の使用頻度は
昔と比べて「方言」が低下してきたのであろう

したがって私たち
いや
少なくとも私は
「標準語」が見知らぬ相手に必ず通じるであろうと
信じて育ったのだが
特にお年を召した方であればあるほど
なかなか「標準語」という「方言」は
通用しないのである
という事実に気づいた

「標準語」は
丁寧で
親切で
綺麗な言葉と信じてきたのだが

それは教育上そう教えてきたということだけであって
実は
「標準語」は
「丁寧」とか「親切」という形容詞を与える以前に
場合によっては
「”理解されにくい”言葉」になりうると
考えたのである

臨床の教育上
そこは文部科学省の管轄であるが故
標準語至上主義の世界である
さすがに専門学校や大学で
標準語至上主義を大々的に掲げてはいないが
多くの
良くも悪くも”よく教育されてきた”教員は
標準語を推奨するだろう

しかし
老年期の大脳生理(というか記憶のパターン)の構造を鑑みれば
”慣れ慣れしい”という評価を受けそうな方言は
決して礼儀上の問題で排除されるべきではない

長期記憶が保たれ易いのであれば
その記憶を用いてコミュニケーションを取れば
信頼関係構築につなげていくことも可能であると考えるのだ

私の仕事場では
方言が飛び交う
同僚たちが
同郷に近いクライアントがいた場合
方言丸出しで対応する

そしてクライアントは
表情を緩めることが多い

ただ単に慣れ親しんだ言葉
そして空間的記憶の近似性
それらが論理を超えた信頼感を生起させる

ことば の
意味を追っかけているだけでは
心理学
いや
認知論
いや大脳生理学に基づいた
関係の構築に役立つのではないだろう

ことば の
目的を追っかけていくのが良いだろう
無意味に
音だけを追っていくのも考え物だが

方言にこめられた
ことばのあり方
方言の表現にこめられた
ことばのはぐくまれ方
それらを見越していけば

むやみに
論理上正しいと思える
実は虚空の信頼関係を導き出す
ことばの やりとりを
続けていく必要は
なくなるのではないかと思った

もし
相手に
意味は通じなくとも
気持ちを通じさせたいのなら
昔から使っていた
自分自身の言葉を
相手に投げかければ良いのかもしれない

「ほぃじゃー、またの」
笑顔で見送りながら
首を傾げられたら
「広島弁で、それじゃあ、またねっ てことー」
とさらに笑顔で伝えればよいのである

のかもしれんがのぉ
オーバーランのニュースが続く。
「オーバーランって、最近多いよね」

A.オーバーラン自体が事実増加している
B.オーバーランの報道が増えているが
 オーバーラン件数自体はあまり変化がない

 B-1.オーバーラン件数は徐々に増えている(年度ベースで)
 B-2.オーバーラン件数はある一定の件数で横ばいである
 B-3.オーバーラン件数はある特定の時期に多発するような
   特徴を持っている

仮説はいくらでも成り立つが、もっとも忌避すべきなのは

オーバーランの報道をよく目にする
 ⇒「最近オーバーラン多いよね」

論理の飛躍はおきていないように見えるが、十分おきている。

同じようなことは、医療ミスに関しても同様である。
何か、インパクトのあるセンセーショナルな事件が起きる。
そのような事件を引き起こすマイナートラブルは頻発していた。
マスコミがこぞって報道をする。
大衆が望む(言葉は悪いが”喜ぶ”)から報道する
似たような事件をあら捜しして報道する
医療ミス・事故の”報道”件数が増える
 ⇒ 医療ミスが。報道が増加した時期に増えたように
   考える人が増える 
 ⇒ 医療に関して注目が集まる
 ⇒ メリット:対策が講じられる
  デメリット:医療従事から離脱する人が増える
        無駄な対策コストがかかる
        ※対策が姑息/見当違いのものである場合
        医療従事者に偏見が課せられる

「あの事件がなかったら、今のように
 医療に関して安全の議論がなされることはなかったはず。」
結果論としては妥当である。
しかし、これは、こういうことを言っている。

「医療には安全に関する問題が山積していた。
 以前から、危ないことはいっぱいあった。
 でも、大きな事件がなければ、それらは検討・改善される
 ことは、なかったんだ。」

そう。大きな事件、事故が起きない限り、対策は講じられない。
これを、古の偉人はいみじくもこう語った。
 「泥棒を見て、縄を編む」

問題の本質は、
「重大な事故を生むような、マイナーなトラブルがあり
 なんとなくでも関係者がヤバいよねと感じたら
 その問題を解決する対策を普段から講じておく必要がある」

そう。
難しいことなんだ。たぶん、そのための技術というか
コツが必要なんだろう。

でも、
相変わらず年金問題の状況は変わらない。
その根本原因の財政赤字の問題は変わらない。
いろんな、マズイ状況はあちこちに見えている。
「いつかは、本当にヤバくなるよね」
案外、誰もがそう感じているのだろう。

けど、今はまだ大事故が起こっていない。
日々はなんとなく過ごせている。
対策を講じて、うまくいったとしても、
事故が起きなければそのツケ(代償)はわからない。
だから、事前対策は結局講じられない。

いや、講じてある部分だってある。
不正がばれないようしている対策だとか。
倒産もしそうもない企業がいざというときのために
社内留保をしこたま溜め込んでいるとか。

講じやすいところは講じている。
自分に近いところの不利益は可能な限り。
それで、他の対策が講じられていなくても。
結局。

・・・。

オーバーラン事件の報道が増やして
人々に安全性をどうやって確保するのか
啓発するのも良いけれど

難しいことだけれど
事前に「この過密スケジュールって危険ではないですか」
とかいう報道が出来ていれば
きっとマスメディアは「良質な仕事」をしたといえるのだろう

えっと・・・
それにしても、警告はあちこちに出始めている
私を含めた第二の団塊の世代たちは
いったいどれくらいのスキルを
親の世代から継承して行っているのだろうか
なんだか
親の世代は案外そういうことを教えてくれなかったような
そんな気がする
いや教えてくれていたのだけれど
学校の勉強を先にしろと言われ続けていたから
教わりきらなかったのかもしれない・・・

これからメンテナンス不足の時代がきっと来る・・・

ごみは誰かが捨ててくれる
壊れたら買いなおせばいい
使えなくなったら捨てればいい
誰かがやってくれる
分からなくても大丈夫
ただ使っていればいい
ただ言われているようにやればいい
誰もがやっている通りにやっていればいい

20年後
果たしてわれわれが日々使っていた
原発や
ATM基幹システムや
鉄道のシステムなどなど
壊れて簡単に交換できるのだろうか
誰かがやってくれるのだろうか
ほっといても大丈夫なのだろうか

誰かがやらなくちゃならないから
やってくれるのだろうか・・・

「なー、あの分けのわからない機械、
 なんか変な音がしているけど・・・
 ま、いいかー。よく分からないけど、
 壊れたときに考えようか。
 たぶん大丈夫だろうよ。」
「そうそう。
 それより、今は、ノルマのために
 こっちの仕事をさっさと片付けないとね。」

願わくば
同じような重大事故がこれから20年にわたって
実質件数として増加していかないであることを
祈るばかりでございます。
知識の有用性が
真実の把握の程度に依存しているとしたら
完全なる真実の把握は
完全なる有益を以って我に報いるだろう

しかし
真実の機構の全てを知識として獲得するためには
現実に生起している現象の全てを緻密に把握しなければならない

そして
たとえ自分自身が涙を流すという現象に関しての
知識たり得る真実を完全に把握したとしても
把握という作業を行っている間に時は流れ
その瞬間にのみ有効であった真実の現象は
次に起こりうる自分自身が涙を流す

予測される瞬間への再利用に当たっては
いくばくか真実を事前に把握することができにくい要素を含む

コピーされた文書は
コピーを重ねていくと
元の形を徐々に失っていくことに似ている

複雑な現象を密に観察し
要点を把握し
真実を構築しているだろう要素の知識を以って
予測という行為で利益をなせるほどに
知識を蓄積することは偉大なる業なれど

時が真実らしい現象生起の機構を変化させていく
知識をどんなに集めようが
本質が変遷していくならば
どれほど密に知識を獲得しようとも
いな
その知識の獲得の度合いが密であればあるほど
知識は真実を予測することは難し

なれど
その難しこと承知の上で
本質の変遷を観察し把握し
その影響度合いを評価して
予測の精度そのものを予測するという手立ても
理論上導出されて然るべき

絶えざる知識の獲得
意図せぬ真実の生起機構の変遷
いたちごっこに過ぎぬのか

我は何を知る
何を知り何を語る
何を記憶し
何を忘却する
記憶した真実も
忘却した真実も
認知した真実も
真実と語るに足るだけの知識になっただろうか

それとも
この知識を持つという我の認識そのものが
真実に過ぎないと
あなたは言うのだろうか・・・
今日 僕は ケータイをかけた 君に 何度も
どうやら 本当なんだね 君の友達が 言っていることは
君は 僕には 会いたくないんだって もう 金輪際
しつこくしていると 次の彼が 殺しに来る 僕を
次の彼氏って 2メートル近くもある 大きな 奴なんだって?

たぶん 君は 臆病な男の 仕業だと 言うだろう
だけど 僕は こんな毎日過ごす 心の準備を していない

僕には できない
僕には できない
僕には 失うことを 耐えられない
僕には できない
僕には できない
僕には 耐えられない あなたを 失うことに

眺めている 返信メール 着信 拒否された
一緒にとった 写メも きっと 削除したんだね
見えなくなったよ 希望なんて 明日には
誰も 聞かなくなったら 僕の 言うことを

君は 言うんだろうな 自信が 無いだけなのと
だけど 生き続けていくことは 意味を 成さない

僕には できない
僕には できない
僕には 失うことを 耐えられない
僕には できない
僕には できない
僕には 耐えられない あなたを 失うことに
僕には 耐えられない あなたを 失うことに

たぶん これが 僕たちの 最後の お別れ
君は 気にも留めない そう 僕は 泣かない
だけど 君は 後悔するだろう 僕が 死んでしまったら
最悪の罪悪感に苦しんでしまえ!

「自殺・・・」って 君は 思うんだろうね
違うよ 僕は 気持ちがあふれてしまって
それを 抑えることが できないだけなんだ

僕には できない
僕には できない
僕には 失うことを 耐えられない
僕には できない
僕には できない
僕には 耐えられない あなたを 失うことに
僕には 耐えられない あなたを 失うことに

僕には できない
僕には できない
僕には 失うことを 耐えられない
僕には できない
僕には できない
僕には 耐えられない あなたを 失うことに
僕には 耐えられない あなたを 失うことに・・・

***** ***** *****

1978年のThe Policeの有名な曲。
The Policeを知らなくとも、Stingはご存知の方が多いだろう。

当時のイギリスは、日本と同じように(まったく同じとは決していえないが)、システム疲労による社会的低迷の時代を過ごしていた(と私は記憶している)。高齢化や、産業基盤の空洞化、若者層を含む失業問題など問題は山積しており、将来の展望が描けない国民が多かった(らしい)。
その後、鉄の女、サッチャー首相の時代に、多くの公社の民営化などかなり厳しい政策と、世界の金融センターを目指した方針が功を奏し、かなり上向きになったと、どっかの記事で読んだ記憶がある。

The Policeは、Don’t Stand So Close To Meという曲で、学校の先生を誘惑する女生徒(もしくは、だらしなく誘惑に負ける・・・あるいは正直に対応する?教師)を題材にしている(この曲も有名で、1990年代にリメイクしてスマッシュヒットしている)。

んー。日本、確実に歴史を辿っている・・・のかなぁ。

Stingは歌っています。
History will teach us nothing(歴史は繰り返す)

A.歴史は繰り返し、人間はそれにどうしても太刀打ちできない
B.歴史は繰り返すけど、人間はそれを学ぼうとしていないから太刀打ちできない

どっちなのだろう・・・。

C.歴史は繰り返しているように見えて、実は状況とかいろいろ変わっているから、本当は繰り返していないのよ

↑あまり問題解決になっていないような気がする。

Requiem

2004年8月23日 Working for...
Mein Traum ist aber voll von der Wirklichkeit leer.
Taeglich sind meine Augen weit geoeffnet, meinen Anblick fur den Anblick zu verlieren.
Meine Vermeidung Form, welche die Wirklichkeit herauf das Erhalten ich in ihn beendet.
Ich laufe fur meinen Traum.
Aber, waehrend der Traum zutreffend kommt, ist jeder Traum weggegangen.
Da ich mich verliere, bequem schmerzliche Wirklichkeit bin ich nur innen.
その朝
お前は銃を担いでいた
お前の飲み水を盗った
奴を追って

奴がくたばるまで
お前は何度も引き金を引いた
だが
お前は州境を目の前に
捕まってしまった

遺族たちは歌を歌う
お前を足を引いて引きずりながら

だが
執行人は縛り首にはしなかった
それでお前は道ばたに捨てられた

戻れ、ジャック
もう一度やってみろ
運命の順番はめぐりめぐってくるものだ
戻れ、ジャック
もう一度やってみるんだ

お前は
誓うように
跪いて
われわれに請う
もはやギャンブラーじゃないと

だが
ふと気づくとヴェガスに舞い戻っている
スロットのハンドル片手に

お前の如何様カードを使えば
いくらでも金は儲かるさ
そう
勝負のテーブルについているときは
隠し通すんだ

ミルクと蜂蜜の国に行ってしまえば
裁きのテーブルの上に
差し出さねばならなくなるから

戻れ、ジャック
もう一度やってみろ
運命は巡り巡ってもどってくるものさ
だから、ジャック
もう一度やってみるんだ

そして
お前は
愛する人の
野心のなさに気づく日が来て
たんなる友達にすぎないと考える

二つの目覚ましが置かれた
お前の部屋で
終わりが間近に迫っていることに気づく

そんなとき
お前は狂おしいほど奔放な女を愛し
その女のために悲しみの日々を送る

だがそいつがほほえみをこぼしている
すべての瞬間には
お前は跪くことしかできないんだ

戻ってこい
ジャック
もう一度やってみろ
運命はめぐりめぐって戻ってくるもの
戻ってこい
ジャック
もう一度やってみるんだ

(Original lyrics by STEELY DAN "Do it again")
***********

うん
もう一度戻って
やってみるさ・・・

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