枠組み
2005年7月16日 from everywhere人は
ものを考えるとき
ある
枠組みで考えると
言われる
困ったことが起きる
嬉しいことが起きる
何にせよ
どうしてそれが起きたのか
考え始めるとき
人は
その人特有の
考え方の道のりを辿って
ものを考える
問題を考えるとき
その問題が
どこから起きているのか考える場合もある
そして
その場合
自分自身
もしくは自分自身に近いところから考え始める場合もある
それに対し
自分自身やその周りよりも
比較的距離のある対象から考え始める場合もある
ただ単純に
目の前に提示されたもの
匂い
耳からの情報
直感
感情を揺さぶる先
そういう感覚的刺激を発生させていると
感じる対象を問題そのものと考える場合もある
方法として
どれが正しいとか
間違っているということはないだろう
どの方法を取ったとしても
問題をどうしたいかという目標
あるいは
問題に対して適切に対処できたという認識を得るという目標
いずれかを達成できるのならば
それらの方法は結果的に有効であったといえることになる
論理的に考えて
最適化された方法の理(ことわり)はあるだろうが
結果的に最短距離で解決(目標の達成)したならば
何でも良いのである
ここでは
目標を達成できた場合を主に考えている
逆に
目標を達成できなかった場合を考えると
結局
どんな方法を取ろうが
達成できなければ
その手法は適切ではなかったということになる
どんなに理に適っている方法であっても
結果的に何らかの目標を達成できなければ
その選択された手法は適切ではなかったことになる
ただしこれまでの考えには
いくつかの前提条件がある
それは
何度も同じ条件で同じ手法を用いることができない
という状況設定である
もし
目的を達成したにしろ
目的を達成できなかったにしろ
目標の達成のために何らかの手段を選択して実行する
その状況を何度か再現することが可能で
一度でも目標を達成することで目標達成するとなると
同じ手段を繰り返し使うことで
その手段が同一の状況下に適応できるかどうかは
例えば統計を用いて評価することが出来る
ところで
同一の条件である手法を繰り返し使用することができないなら
また
別の手法と比べられるような状況がないのならば
それは
再現性に乏しくなるため
ある手法が他の手法に置き換わったらどうだったか
実際に結果を判定することが出来ない
だから
目標を達成できなかった手法以外の方法で
達成できたかどうか
判定することは出来ない
では
どこまで
その状況を決定する要素を決められるのか
その要素は多数あるのか
少数で賄えるのか
全要素を勘案すべきなのか
今までの話では定義づけされていないので
書き手と読み手は
適当に自分自身で理解できるような前提をおいて
話題を読み解く
そう
それが思考の枠組みなのである
所詮
たかだか言葉で
緻密な現実を語りつくせることは出来ない
また
様々な現実の要素から構成される
概念を表す言葉を用いれば用いるほど
共通認識のブレが増幅される
たかだか
人間の認識
たかだか
生まれて間もないコミュニケーション手段
ことば
もしその限界を分かっているのなら
ことば以外にも
我々が獲得すべきコミュニケーションの手段を
我々自身が発見していくというのも
すばらしいことではないだろうか・・・
ものを考えるとき
ある
枠組みで考えると
言われる
困ったことが起きる
嬉しいことが起きる
何にせよ
どうしてそれが起きたのか
考え始めるとき
人は
その人特有の
考え方の道のりを辿って
ものを考える
問題を考えるとき
その問題が
どこから起きているのか考える場合もある
そして
その場合
自分自身
もしくは自分自身に近いところから考え始める場合もある
それに対し
自分自身やその周りよりも
比較的距離のある対象から考え始める場合もある
ただ単純に
目の前に提示されたもの
匂い
耳からの情報
直感
感情を揺さぶる先
そういう感覚的刺激を発生させていると
感じる対象を問題そのものと考える場合もある
方法として
どれが正しいとか
間違っているということはないだろう
どの方法を取ったとしても
問題をどうしたいかという目標
あるいは
問題に対して適切に対処できたという認識を得るという目標
いずれかを達成できるのならば
それらの方法は結果的に有効であったといえることになる
論理的に考えて
最適化された方法の理(ことわり)はあるだろうが
結果的に最短距離で解決(目標の達成)したならば
何でも良いのである
ここでは
目標を達成できた場合を主に考えている
逆に
目標を達成できなかった場合を考えると
結局
どんな方法を取ろうが
達成できなければ
その手法は適切ではなかったということになる
どんなに理に適っている方法であっても
結果的に何らかの目標を達成できなければ
その選択された手法は適切ではなかったことになる
ただしこれまでの考えには
いくつかの前提条件がある
それは
何度も同じ条件で同じ手法を用いることができない
という状況設定である
もし
目的を達成したにしろ
目的を達成できなかったにしろ
目標の達成のために何らかの手段を選択して実行する
その状況を何度か再現することが可能で
一度でも目標を達成することで目標達成するとなると
同じ手段を繰り返し使うことで
その手段が同一の状況下に適応できるかどうかは
例えば統計を用いて評価することが出来る
ところで
同一の条件である手法を繰り返し使用することができないなら
また
別の手法と比べられるような状況がないのならば
それは
再現性に乏しくなるため
ある手法が他の手法に置き換わったらどうだったか
実際に結果を判定することが出来ない
だから
目標を達成できなかった手法以外の方法で
達成できたかどうか
判定することは出来ない
では
どこまで
その状況を決定する要素を決められるのか
その要素は多数あるのか
少数で賄えるのか
全要素を勘案すべきなのか
今までの話では定義づけされていないので
書き手と読み手は
適当に自分自身で理解できるような前提をおいて
話題を読み解く
そう
それが思考の枠組みなのである
所詮
たかだか言葉で
緻密な現実を語りつくせることは出来ない
また
様々な現実の要素から構成される
概念を表す言葉を用いれば用いるほど
共通認識のブレが増幅される
たかだか
人間の認識
たかだか
生まれて間もないコミュニケーション手段
ことば
もしその限界を分かっているのなら
ことば以外にも
我々が獲得すべきコミュニケーションの手段を
我々自身が発見していくというのも
すばらしいことではないだろうか・・・
サザエさんを見よう
2004年5月24日 from everywhereそういえば最近
サザエさんを見ていない
あんなにずっと見ていたのに
いつごろから見なくなっただろう
テレビがないのもあるけど
気がついたら
サザエさんはいなくなっていた
なんとなくだけれど
ずっと見続けていたのに
サザエさんを見て育った僕たち
サザエさんの話題で笑った僕たち
そんなに話題にならないときもあるけど
最後のじゃんけんや
カツオやタラちゃんの声変わりなんかで
時として話が咲いたものだった
サザエさんを見ていた幼い僕たち
大人になったら
あんな風になるのだと信じていた
東京には空き地や
柔らかな土の色をした道路があり
電車の通勤は穏やかで
お父さんたちは夕方には帰ってくる
活気のある商店街
親しい近所づきあいは居心地が良くて
時々起こる騒動も
必ず終わってハッピーになる
幸せな日々
幸せな毎日
そんな幸せを与えてくれた
サザエさんたち
うそつき・・・
サザエさんたちを見る僕たち
永遠に手に入ることのない
夢を見させてもらっているのだろうか
サザエさんたちを見る僕たち
あの理想に向かって努力するため
サザエさんたちはいつも笑っているのだろうか
本当は
サザエさんたちだって必死に生きていて
それが物語りに描かれていないだけ?
本当は
僕らもサザエさんたちのように生きていて
その幸せを感じなくなっているだけ?
いつしか見なくなったサザエさん
そう・・・
見なくなったんじゃなくて
見たくなくなったのかも知れない
いや・・・
見なくなったんじゃなくて
見えなくなったのかもしれない
幸せを追うことをやめて
僕の目はどんな風に腐っていくのだろう
幸せを追うことをやめたわけじゃない
夢を見ることを忘れたわけじゃない
ただ
僕には日曜日が来なくなっただけだよ・・・
大丈夫・・・
大丈夫・・・
深呼吸をしよう・・・
そんなに息をしても
逆に息がつまってしまうだけだよ・・・
明るい日差しが照らして
風がそよぐ日に
大好きな人と手を取り合って
散歩しよう
そして夕方が訪れたら
一緒に美味しいものを食べよう
そして
ゆっくりとサザエさんを見よう
「あんな幸せな家族
見たことないよ」
「なれたらいいね」
久しぶりに
いつかしたような会話を
大好きな人とゆっくりしよう
サザエさんを見ていない
あんなにずっと見ていたのに
いつごろから見なくなっただろう
テレビがないのもあるけど
気がついたら
サザエさんはいなくなっていた
なんとなくだけれど
ずっと見続けていたのに
サザエさんを見て育った僕たち
サザエさんの話題で笑った僕たち
そんなに話題にならないときもあるけど
最後のじゃんけんや
カツオやタラちゃんの声変わりなんかで
時として話が咲いたものだった
サザエさんを見ていた幼い僕たち
大人になったら
あんな風になるのだと信じていた
東京には空き地や
柔らかな土の色をした道路があり
電車の通勤は穏やかで
お父さんたちは夕方には帰ってくる
活気のある商店街
親しい近所づきあいは居心地が良くて
時々起こる騒動も
必ず終わってハッピーになる
幸せな日々
幸せな毎日
そんな幸せを与えてくれた
サザエさんたち
うそつき・・・
サザエさんたちを見る僕たち
永遠に手に入ることのない
夢を見させてもらっているのだろうか
サザエさんたちを見る僕たち
あの理想に向かって努力するため
サザエさんたちはいつも笑っているのだろうか
本当は
サザエさんたちだって必死に生きていて
それが物語りに描かれていないだけ?
本当は
僕らもサザエさんたちのように生きていて
その幸せを感じなくなっているだけ?
いつしか見なくなったサザエさん
そう・・・
見なくなったんじゃなくて
見たくなくなったのかも知れない
いや・・・
見なくなったんじゃなくて
見えなくなったのかもしれない
幸せを追うことをやめて
僕の目はどんな風に腐っていくのだろう
幸せを追うことをやめたわけじゃない
夢を見ることを忘れたわけじゃない
ただ
僕には日曜日が来なくなっただけだよ・・・
大丈夫・・・
大丈夫・・・
深呼吸をしよう・・・
そんなに息をしても
逆に息がつまってしまうだけだよ・・・
明るい日差しが照らして
風がそよぐ日に
大好きな人と手を取り合って
散歩しよう
そして夕方が訪れたら
一緒に美味しいものを食べよう
そして
ゆっくりとサザエさんを見よう
「あんな幸せな家族
見たことないよ」
「なれたらいいね」
久しぶりに
いつかしたような会話を
大好きな人とゆっくりしよう
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なぜ人はいなくなるか
2004年5月1日 from everywhere「なぜ人はいなくなるか」
というタイトルの本が書店で並んでいるとする
もし、その本が山積にされていて
帯に
「孤独なのはあなただけじゃない、
心理学・生物学を縦覧した先に見える希望とは?」
なんていかめしい書体で書かれていたとする。
やっぱ、心引かれる人も何人かはいるのだろうなー。
でも、タイトルそのものは、文法的におかしい。
「人はいなくなる」
っていうのは、一般的な事象を表している。
「人は死ぬ」
っていうのは、一般的事実として認識するのはたやすい。
でも、
「人っていうのは、必ずいつかは死ぬものなんだよ」
っていうのと同様に
「人っていうのは、必ずいつかはいなくなるものなんだよ」
っていわれるのは少し次元が違う。
条件がなければ、純粋な「人はいなくなる」というのは具現化もしくは認識不可能だ。
「いなくなる」のは「どこからか?」がつきまとう
「いなくなる」というのは空間認知的要素を付帯して具体的な説明が可能になる言葉である。
たぶん、「なぜ人はいなくなるか」
というタイトルそのものに惹かれる人がいるのならば、
その人はそのタイトルに主観的な(あるいは個人的な)修飾語を
そのタイトルに見出しているだろう。
「なぜ人は(わたしのもとから)いなくなるのか」
「なぜ人は(あなたの店から)いなくなるのか」
「なぜ人は『いなくなる』のか」(『いなくなる』という行為を何らかの側面で新たに定義づけていると考える)
「なぜ(日本)人は(世界的影響力の舞台から)いなくなるのか」
「なぜ(ならば)人は(トイレに対する役割の終焉を認識したから)いなくなる(という話題が争点な)のか」
「なぜ人はいなくなるのか」
は、しかし、魅惑的だ
(ただ、たぶん世の中の80%に対してはそうでもないだろうけど)
それは、「わけがわからないけど、それなりに本なのは理由があるからだろう」
とか、上記のように、自分の主観を交えてその本に自我関与できたり、
何かしらミステリアスな面を持つからだ。
なんてことを
研究の残業でヘロヘロになった頭で考えることあった。
唐突に「なぜ人はいなくなるのか」という言葉が口を突いて出てきて
「さびしいのぅ」
用務員のおっちゃんがつぶやいていた
というタイトルの本が書店で並んでいるとする
もし、その本が山積にされていて
帯に
「孤独なのはあなただけじゃない、
心理学・生物学を縦覧した先に見える希望とは?」
なんていかめしい書体で書かれていたとする。
やっぱ、心引かれる人も何人かはいるのだろうなー。
でも、タイトルそのものは、文法的におかしい。
「人はいなくなる」
っていうのは、一般的な事象を表している。
「人は死ぬ」
っていうのは、一般的事実として認識するのはたやすい。
でも、
「人っていうのは、必ずいつかは死ぬものなんだよ」
っていうのと同様に
「人っていうのは、必ずいつかはいなくなるものなんだよ」
っていわれるのは少し次元が違う。
条件がなければ、純粋な「人はいなくなる」というのは具現化もしくは認識不可能だ。
「いなくなる」のは「どこからか?」がつきまとう
「いなくなる」というのは空間認知的要素を付帯して具体的な説明が可能になる言葉である。
たぶん、「なぜ人はいなくなるか」
というタイトルそのものに惹かれる人がいるのならば、
その人はそのタイトルに主観的な(あるいは個人的な)修飾語を
そのタイトルに見出しているだろう。
「なぜ人は(わたしのもとから)いなくなるのか」
「なぜ人は(あなたの店から)いなくなるのか」
「なぜ人は『いなくなる』のか」(『いなくなる』という行為を何らかの側面で新たに定義づけていると考える)
「なぜ(日本)人は(世界的影響力の舞台から)いなくなるのか」
「なぜ(ならば)人は(トイレに対する役割の終焉を認識したから)いなくなる(という話題が争点な)のか」
「なぜ人はいなくなるのか」
は、しかし、魅惑的だ
(ただ、たぶん世の中の80%に対してはそうでもないだろうけど)
それは、「わけがわからないけど、それなりに本なのは理由があるからだろう」
とか、上記のように、自分の主観を交えてその本に自我関与できたり、
何かしらミステリアスな面を持つからだ。
なんてことを
研究の残業でヘロヘロになった頭で考えることあった。
唐突に「なぜ人はいなくなるのか」という言葉が口を突いて出てきて
「さびしいのぅ」
用務員のおっちゃんがつぶやいていた