ことば。

2005年6月26日 Working for...
仕事(臨床の方)で英語を使った
世間話を久々に英語で、した

相手は日本語ができるということで
私の勤める病院に入院されていた
担当したのでちょっと聞いてみた
「英語はどうですか」
まずまずの日本語で、英語のほうができると
返答された

そして
たくさんしゃべった
ファミリーのこと
文化のこと
信じているもののこと
日常の厳しい仕事と勤務時間
長いバケーション

今回の病気のこと

久々に
気持ちのこもった
「サンキュー」を聞いた
Not at all とカッコつけて返してみたが
幾度となく繰り返されるThank youに
自然に
You’re welcomと返してしまった

私の中では
Not at all 「いえいえ・・・」
You’re welcom 「どういたしまして」
というニュアンスで
Not at allで、そそくさと背を向ける気持ちが
いつしか
You’re welcomと、その方の気持ちに応えて返してしまった
ような気がする

やはり
言葉が通じることは気が楽だ
言葉が通じると
気持ちが通じるような気がする

さて
実は
私は同じ日本人同士でありながら
ほとんどコミュニケーションが取れなくて
悔しいと感じながらも
何か教訓を得たと思った経験をしたことがある

同じ日本人同士でも言葉が通じないということは
100年前
方言が違うことで言葉が通じなかったというような
例も挙げられるが
それと似たようなことだ

実習で
とあるご老人が集う施設での
活動に参加したことがある

今で言う認知症をお持ちの方々も多くみえていた

学生であるために(二十代後半ではあったが)
恐る恐るコミュニケーションを試みた
しかし
挨拶や
天気がどうであるという話題は少し通じるが
話題を膨らませようとすると
まったく話がかみ合わない
相手が言っていることが分からない
しかし
私が言っていることは特段難しいことではなくて
年齢を聞いて
その時代に何があったかを次に聞こうとして
そこで話が止まってしまう
話題が相手の興味をそそらないのかも知れないが
反応がなかったり
見当違いの回答があり
話が続かないのだ
お互いに
ゆっくりと話をしているのに

そして
あきらめて
「ごゆっくり」とその場を離れる
相手の方は
すこしぼんやりとしておられた

しばらくして
隣に座っていた
認知症があり
すこしぼんやりとされている方なのだが
その方と話が始まった

私は驚いた
それまで
脱力していた表情と
うつろな眼差しをしていた二人が
私が聞いたことのない日本語を
流暢にお互い話し始めて
表情豊かに
会話をポンポンと進めていった
どうも
同郷の知人に関する話題のようなのだが
方言が強くて
私にはまったく理解することが出来なかった
何が名詞で
何が動詞で
どこが文節になるのか
それさえも分からなかった

眼差しには光が戻っており
どうも
真剣に議論をしているようで
会話の途中でしきりに頷いたり
言葉の途中で補足を差し挟んだりしている

よっぽど自分自身の方が話し下手だと思った
二人は90歳を越えようかとしている方々だった

私は理解した
このような方々と活き活きと付き合うためには
生まれ育った環境で習得した言葉を身につけるのが
最も効果的な手段だと・・・

日本社会において「人」の流動性が増大したのは
たかだかここ50年ぐらいのことではないだろうか
それまでは
多くの「首都圏」と呼ばれる地域以外の地域で
標準語という教科書で教わるアナウンサーたちがしゃべる言葉と
自分たちの地域に根ざしてお互いに使ってきた「方言」があり
生活で使う言葉の多くは「方言」であった

人の流動性が高まるにつれ
どこに行ってもお互いの意思疎通を図る必要が生まれ
徐々に
「標準語」が使われ始め
教育上も「標準語」が推奨されてきたため
特に子供の時代に学校で多くの「標準語」に触れたために
「方言」と「標準語」の使用頻度は
昔と比べて「方言」が低下してきたのであろう

したがって私たち
いや
少なくとも私は
「標準語」が見知らぬ相手に必ず通じるであろうと
信じて育ったのだが
特にお年を召した方であればあるほど
なかなか「標準語」という「方言」は
通用しないのである
という事実に気づいた

「標準語」は
丁寧で
親切で
綺麗な言葉と信じてきたのだが

それは教育上そう教えてきたということだけであって
実は
「標準語」は
「丁寧」とか「親切」という形容詞を与える以前に
場合によっては
「”理解されにくい”言葉」になりうると
考えたのである

臨床の教育上
そこは文部科学省の管轄であるが故
標準語至上主義の世界である
さすがに専門学校や大学で
標準語至上主義を大々的に掲げてはいないが
多くの
良くも悪くも”よく教育されてきた”教員は
標準語を推奨するだろう

しかし
老年期の大脳生理(というか記憶のパターン)の構造を鑑みれば
”慣れ慣れしい”という評価を受けそうな方言は
決して礼儀上の問題で排除されるべきではない

長期記憶が保たれ易いのであれば
その記憶を用いてコミュニケーションを取れば
信頼関係構築につなげていくことも可能であると考えるのだ

私の仕事場では
方言が飛び交う
同僚たちが
同郷に近いクライアントがいた場合
方言丸出しで対応する

そしてクライアントは
表情を緩めることが多い

ただ単に慣れ親しんだ言葉
そして空間的記憶の近似性
それらが論理を超えた信頼感を生起させる

ことば の
意味を追っかけているだけでは
心理学
いや
認知論
いや大脳生理学に基づいた
関係の構築に役立つのではないだろう

ことば の
目的を追っかけていくのが良いだろう
無意味に
音だけを追っていくのも考え物だが

方言にこめられた
ことばのあり方
方言の表現にこめられた
ことばのはぐくまれ方
それらを見越していけば

むやみに
論理上正しいと思える
実は虚空の信頼関係を導き出す
ことばの やりとりを
続けていく必要は
なくなるのではないかと思った

もし
相手に
意味は通じなくとも
気持ちを通じさせたいのなら
昔から使っていた
自分自身の言葉を
相手に投げかければ良いのかもしれない

「ほぃじゃー、またの」
笑顔で見送りながら
首を傾げられたら
「広島弁で、それじゃあ、またねっ てことー」
とさらに笑顔で伝えればよいのである

のかもしれんがのぉ

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