思考と言語はメタファーに過ぎない。
 メタファーとは”比喩”であり、”比喩”とは簡単に言うと、”たとえ”である。
 いきなり何のためにこんなことを言い出しているのかと思われる人も多いだろう。自分でもよく分からないが、”真実の知”を追い求めていく好奇心に純粋に追従していくと、先ほどのセンテンスに帰結するのである。
 それは、哲学を考えていても、現実の問題に悩んでいても、医療や経済や流通やITを考えていてもそうだ。たとえ、熟考の対象が恋愛であったとしても。
 では、その帰結した究極の真実が、問題の解決策になるかといえば、決してそうはならない。ふと最終的にたどり着いた答えに、眼からうろこが落ちたような気分になる。しかし、何の解決にもならないところに暗澹とした気分になる。
 解決にならなければ、それは答えではないではないか。否(いな)。現状を説明することも、定義的には”答え”となるだろう。解決策を見出すことも、同じ”答え”という表現で扱われることが、ままある。しかし、根本は違うことに−特に問題解決策を模索する場面では気づかされる。
 抽象的な話を続けるのは、哲学的雰囲気を味わう有用性を持つものの、議論を深めるためには具体的な話をここでするのが良いだろう。
 塾で、算数を教える。様々な生徒がおり、それぞれに固有の生活環境を持つ;家族が多い家庭、少ない家庭、情報にあふれた家庭など。また、知的機能の発達の度合い、あるいは生来の特質もそれぞれ異なる;数的操作能力の適応が早いもの、言語操作能力が高いもの、理論的転移を難なく行うもの、空間認知能力が高いもの、協調作業における知的操作共同が行えるもの。
 早い発達段階にあるもの達は、知的操作がそれぞれの領域で分化しており、簡易な思考過程をとるために、どのような思考過程を取ってきたか観察を通じて帰属的に分類することが可能である。
 つまり、分量の比例計算を行う場合、数式だけで理解を示すもの、簡単な図表を用いて口頭で説明すると理解を示すもの、図表と数式の相関関係を時系列的に説明して理解を示すが、同様な手続きを取る別な問題に置き換えて理解することは困難なもの。それらをステップを踏んで説明することにより、どの段階で理解を示し(あるいはどの段階で”もう分かったからいいや”という態度を示す)、以降の応用でどのような態度を示すかチェックすることができる。
 また、どの時点で理解を示したかということと同時に、どのような理解の表出を行うかも確認しておきたい。言語により一般化したプロセスを説明できるもの、言語による説明は出来ないが、数式だけ用いて説明できるもの、数式を書いて示すもの。手順だけ置き換え、数字の入れ替えを説明するもの。理解の度合いを段階分けすることができるとともに、それらの個が持つ知的機能能力評価も可能であろう。
 彼らの頭の中では、何が起きているか。
 観察者が、より高度な(処理速度が速い、応用できる情報量が多いという意味)知的能力を持てば持つほど、彼らの持つ理解の方向性が自分のものと異なることに困惑するだろう。しかし、大脳生理学や認知心理学をある程度理解していれば、彼らのどの脳の領域が発達していて、どの部分で問題が処理されたかトレースすることができるかもしれない(あくまで観察者の決定であり、主観に過ぎないが)。
 もし、応用問題を解くのが難解だと訴える生徒に対して、卑近な買い物の例を口頭で説明することで適応を示す生徒がいるならば、その生徒が生活体験からの転移を容易に行うことができると判断してもいいかもしれない。たとえ、買い物の例で分からなくても、その生徒が行ったことのある買い物のエピソードをたずね、それに関連付けすることで理解は改善されるかもしれない。また、買い物そのものにおける知的処理の場面に興味がないとすれば、ゲームを用いて理解を促進することが出来るだろう。
 もちろん、そんなことをしなくても理解を示す生徒は多い。単なる掛け算、割り算などの演算であれば、ルールの習得でことが済んでしまう。
 しかし、興味深いのは、図形における円の一般的性質を応用する問題を理解するときに、教唆するまでもなく、割合や百分率などと関連付けして理解する生徒がいることである。それらの生徒に、具体例から学んだことを口頭で説明する習慣をつけさせておくと、その気づきに関して自発的に確認を求める(”先生、この考えでいいんよね?”と)。
 多くの生徒は、これはあまり出来ない。しかし、この質問を誉めると、不思議なことに、算数に対する苦手意識を持つ生徒さえ、時に教えても無いのに同じような気づきを表出し、そして却ってこちらがはっとさせられることがある。
 理論適応が早い生徒は、そもそも数的操作に(相対的に)熟達している。が故に、他の場面で経験してきた知的操作を早期に行うことが、その生徒にとって”良いことである”と認知し、そして行動の中に無意識で実行されるよう規定されている。ところで、それを誉められているところを見ることで、模倣を行った生徒は、抽象的理解を行うことよりも現実において他者に賞賛されたいという欲求が先行していると考えられる(”算数苦手”と言いながら塾に来るような場合、このようなケースは多い)。そこで、その生徒が経験の上、他との関連を行うことで賞賛を得るという認識が、その関連付け行動の動因になった場面として説明することが妥当だと思われる。
 さて、長くなってきたが、以上のように、”たかが算数”ではあるが、個々の知的機能獲得過程として観察を行うと、なかなかどうして奥は深い。
 さらに、これらの観察は一義的なものではない。物理的環境、教える人間環境、教わる人間環境、教わるもの同士の人間環境が、それぞれ相互作用して形成される場におけるものである。よって、場面場面により、観察評定の基準など異なってくる。
 よって、定量化して厳密に科学的な解釈を実施できるものではない。
 しかし、より高度な科学的手法をもたないいにしえから、人間は経験則からある真実の概要をつかむことが出来てきている。
 自分という観察環境からの観察を累計してきた結果、1.そもそも数字やその性質はメタファーである、2.数的操作の獲得にはメタファーが役立つ、3.理論の構築もメタファーである(そのものはメタファーではないが経験のメタファーが反映していることが多い)、4.メタファーは情報の解釈処理に有用だと思われる場面が多い、などの結論が提起された。

 ”1+1=2”は、自明だと言われている。しかし、子どもに”ひとつとひとつをあわせるとどうなる?”と聞くと、”ひとつになる”と答える場合は案外多い。そのこどもに詳しく聞くと、”ジュースいっぱいと、もうひとつジュースいっぱいをいれると、おおきないっぱいのジュースになるよ”という話である。

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少しすっきりしたのでここまでです。

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